クラブの歴史Sanda Golf Club history

三田ゴルフクラブは、1930年(昭和5年)関西で6番目、
日本では18番目に誕生しました。

日本で一番古い歴史を持つゴルフクラブは明治34年(1901)に六甲山頂に造られた「神戸ゴルフ倶楽部」で、
世界的にも38番目に古いクラブと言われいます。
その後関西では、鳴尾ゴルフ倶楽部・垂水ゴルフ倶楽部・茨木カンツリー倶楽部・宝塚ゴルフ倶楽部が誕生、
三田の土地に関西で6番目に古いクラブとして誕生したのが「三田ゴルフクラブ」です。

  • 会場準備中のクラブハウス(昭和4年)

    創設当時クラブハウスも小さく、40人プレーする日は食堂では立ち食いを余儀なくされた人もいましたが、 誰一人文句を言わずゴルフを心から楽しんだと言われています。
    風呂も今のような物ではなくいわゆる五衛門風呂でした。一人ずつ交代で入り、後はクラブ従業員の手作りのおでんで一杯・これがファミリー精神を生んだ一つのルーツでもあります。

  • 三田ゴルフクラブ創設者「佐藤 満 翁」

    [佐藤 満 翁]は神戸ゴルフ倶楽部の支配人をしていた当時、裏六甲に日本人が気さくにプレーのできるゴルフクラブを造りました。
    ゴルフの大衆化を実現しようとの情熱にかられ、休日を利用してはあちこち腰弁当で歩き回りようやく見つけ出したのがここ三田・三輪の土地です。
    ゴルフ好きな人々が[佐藤 満 翁]を中心に地主を一軒また一軒訪ね、ゴルフ場創設の話を持ちかけ、どんなスポーツであるか説明し、実地の六甲山頂に招き、一人また一人、理解と協力得て「有馬ゴルフ倶楽部」の名称で発足しました。

  • 有馬富士を望む第一打は現在とほぼ同じ

    当時のこととてブルドーザーがあるわけでなく"鍬"と"もっこ"で気の遠くなるような時間と労力をかけて造られました。
    文字通り手造りで、ゴルフの好きな人々が集まって心血を注いで造ったのが、我が「三田ゴルフクラブ」です。

  • 戦争で閉鎖中のクラブハウス

    第2次大戦の為やむなく一時閉鎖しましたが、昭和28年(1953)「三田ゴルフクラブ」と名称を変え再開しました。

  • コース閉鎖中の約2年間牛が放牧されていた

    昭和26年(1951)4月

  • 再開当時のコース作業風景

    後方は有馬富士1番ホール
    戦時中の防空壕埋め立て工事です。

  • ファミリー精神を基に造られた歴史のある、
    それでいて庶民性の高いクラブ

    「三田ゴルフクラブ」はどこか他のクラブと違う雰囲気があるとよく言われますが、
    これは創設時のファミリー精神が今も引き継がれているということです。
    全会員が知恵を出し合い「コースを良くしていこう」「お互い仲良く楽しくゴルフをしよう」という精神が根づいていて、
    一人一人がクラブに愛着を持ち相互信頼関係に基づき家族的なクラブライフを形成しています。

再開の頃の各コース

90周年記念事業の一環として、2020年2月よりアウト・インが入れ替わりました。

  • No.1

    有馬富士を望んで、第一打!

  • No.2 No.3

  • No.4

  • No.5 No.6

  • No.7

  • No.8 No.9

  • No.10

    着物を着たご婦人の見守る中でのティーショット!

  • No.11

  • No.12

  • No.13

  • No.14

  • No.15

  • No.16

  • No.17

  • No.18

さとう橋完成

  • さとう橋の渡り初めNo.17

    創設者、佐藤満氏の他界後、遺族からのご芳志を工事費に活用して完成したので、これを記念して“さとうばし”と名付けた。

  • 手押し電動カートで「さとう橋」を渡るNo.17への歩経路(昭和51年)
    昔懐かしい、わら葺きの屋根が当時残っていた

みつわ橋 渡り初め

  • 当クラブの伝統である地元三輪区・成谷区とゴルフ場の共存共栄“三和(輪)の精神”に因み“みつわばし”と名付けた。

カートの変遷

  • 1人で2バックを両肩に担ぐキャディさん10番ホール(昭和44年12月)

  • 1カート2バックの手押しカートでアウト、インのスタートに向かう。
    左後方に有馬冨士がよく見える(昭和45年3月)

  • 手動式電動カート(昭和47年11月)

創設者佐藤満翁の顕彰碑
郷里岡山に建立

  • 当クラブの創設者であり、我が国ゴルフ大衆化の草分け、故佐藤満翁の顕彰碑が翁の出身地、岡山県御津郡建部町吉田の金光教竹枝教会境内に、地元有志の手により建立され、去る平成2年盛大に除幕式が挙行されました。
    当クラブから松井理事長と事務局西良庶務主任が参列、理事長より祝辞を述べました。

  • 「三田ゴルフクラブ」マークの由来

    戦後再開以来[佐藤 満 翁]が横ベタ印の中にS.G.Cの頭文字を横にならべた簡単なものを使用していましたが、昭和30年11月、会員の矢達慶一氏からマーク制定の議が持ち上がり両氏相談の上、大阪淀屋橋「尚美堂」の図案部に依頼しました。

三田の地名の起り

三田という地名は、北区(天神)にある金心寺(こんしんじ)から起りを求めることができる。
それは天正年間(今から約380年前)に、今の香下に松山四郎左衛門という豪族がいて、三田、三輪地区を治めていたので、松山の庄といわれていた。
この四郎左衛門、織田信長の臣下であったため、信長が三木の別所長治を攻めたとき、長治は伊丹の荒木村重と連絡をとって、信長に反抗した。
この時、村重は金心寺(現在の有馬高校と三田小学校附近一帯にあった)に立てこもったため、四郎左衛門は明智光秀らとともに金心寺に火を放ち、その勢いに乗じて、別所長治をも攻めたのである。
金心寺は全焼したが、講堂の本尊“弥勤菩薩”と本尊“薬師如来”の2仏は、金心寺庭園の池、(現在の三田小学校横の大池)に投げられて、焼失をまぬがれた。
そして、その後引揚げて、金心寺を再興したときに安置した。

昭和7年に国宝“弥勤菩薩”を修理したが、胸内に次の文字が彫ざまれていた。
「当地一帯を松山の庄と号す。之を金心寺恩田、非田、敬田の三田(さんでん)を以って三田(さん・だ)と改む」この菩薩は、中国の帰化人、直大口漢山口とういう仏師が、白雉元年今から1313年前に完成したものであるという。
また金心寺は、天智天皇の時代に藤原鎌足の長子定慧上人が、唐より帰朝後天皇の命を受けて建立した。
それ以後、信仰の厚い天皇、諸大名の寄進により、20万石の寺領田を持ち、これを恩田、非田、敬田と名づけた。金心寺古来の詠歌に「諸々の功徳の苗を三つの田に植えぬる身こそ末たのしけれ」とある。
三田という地名のいわれは、金心寺に見いだすことができる。金心寺は、本来は、金剛不心寺というが、略して、“金心寺”という。